痰を吐くという行為

宗教って、良く分からない。そして、その宗教団体に協力する人達は、本当に宗教というものや、死者というものに対してどの様に考えてるのか、良く分からない。今日、石材店の責任者と会い、本当に分からなくなった。

子供の頃に、ジイから代々伝わるという古神道を学んだ。様々な儀式の方法や考え方を教えられた。ある時に最も大事と思われる事を教えた、その最後に付け加えられた言葉は「『呪』(シュ:人を呪うと言う意味ではなく、一種の祈りのようなものと解釈してる)を送るも、受けるも、返すも、人の心」という様な事だった。先祖の中には何人か、特別な人も居たようだが、ジイはそういう事を信じていなかった。その言葉は強く印象に残っている。

ジイから、生きてる人間の尊厳を学んだ。如何なる悪人であろうが、人は自然の一部であり、身の回りの自然と同じ様に大事なものであると学んだ。死者に対しても、死して人の身は水に戻り、土に戻り、空気に戻っていく。死した人は、生ける人を活かすためにの自然に戻っている。その人の想いは常に人の側に在る。というような事を学んだ。

ついでにというのもおかしいが、ジイと親しかった住職から、真言宗を通して仏教というものも教えられた。死者だけではなく、生きてる人間の生き方について、子供の自分に対しても、厳しい教えを、例え話を以て教えた。死者に対する尊厳と共に、生きてる人に対しての、我が師、仏の如く敬う事を厳しく教えられた。不動明王の厳しい形相と鎖と剣を持つ姿は、相手を如何なる時にも救い守るという厳しい姿勢だと、その様に教えられたと思う。

子供の頃に学んだ事は、不思議と消えないものだ。幾ら人を怨んでみても、怨みきれないものだ。人は自分を育ててくれる師匠であり、教えを授けようとする仏のようでもあり、全てを包む自然のようでもある。

 

さてさて、今日会った石屋さん、どの様に解釈したらいいものか。何を学ぶべきなのだろうか。

カアさんの戒名を、墓誌石に刻んでもらった。その支払をし、その後に墓石が動いてるので直した方が良いと言われた。確かにその様なので、また頼んだ。ただ、墓石の側で話しをしながら、タバコを吸っていたので痰が溜まるのか、玉石に「ペッペ」と何度も痰を吐いた。嫌な顔をしていたのが分かったらしく、直ぐに靴でグシャグシャにしていたが、気分は良くなかった。カアさんがつい最近入ったばかりだ。

以前、町内の人の葬儀で、事前に山奥の墓まで行った事がある。たまたま墓石を立てに来ていた石屋が居た。何人かで墓の確認に行ったので、小用が出来なくなったらしく、陰に隠れて、他の墓石の直ぐ近くで足していた。後で町内の者と笑ったものだが、墓石を専業にしてる石材店は、いかに墓石を作り立てるかを考えていても、死者の眠る墓所そのものには畏敬も何もないらしい。

墓石屋の本音が石を立てる事だけなら、今の寺の御住職は、死者や墓所に対してはどの様に考えているのだろうか。確かに、ジイに教えられた事でも、墓の中にあるのは土になった物だけで、想い、想念の留まる所は墓その物ではないと聞いた覚えがある。墓とは、単なる個々人の顕彰の「場」でしかないのだろうか。

 

中国では、体内の悪い物は出さなければならない。だから毛沢東の頃までは、対談のテーブルの側に痰壺が置かれていたそうだ。国際的に、そういう痰を吐くという行為が見た目に良くないので、痰壺は置かなくなったと聞いた事がある。自分は、どうも子供の頃から痰が吐けない。本来なら、出した方が良い物は出すべきだが、それが出来ない。人が見て様が、誰も居ない所でも、仕方なく吐く事もあるが、大概は飲んでしまう。

たかが「痰」だが、カアさんの側に、既にもうカアさんは居ないのに、痰を吐かれた事に心が大いに乱れてしまった。

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